エド・キャンベルの自伝.。2回にわたって父上の思い出
を語ってもらった
■主な内容
誇りに思っていた
第7回 ログの仕事をスタート
第8回 ログビルダーへの道
第9回 父の思い出 前編
第10回 父の思い出 後編
第11回 一家の新たな冒険
最終回 ログハウスを建てたかった理由
第一回に戻る第9回 目次
関連ペイジ
→エド・キャンベル紹介
→エド・キャンベル (雑誌記事)
1. モホークインディアンの血
エドをはさんで父と母 |
今までの3回の物語は、私自身と私の家族についての話でした。今回の物語は、私にとって特別の友人について書いてみたいと思います。
私のこれまでの人生を通して、ずうっと友人であり続け、同時に多大なる影響を与えてくれたことに対して感謝を捧げなければならない相手です。そんな特別の人物とは、私の父です。
スコティッシュとインディアンの混血
父は1916年12月6日、オンタリオ州のオシャワで生まれました。
彼の名前シリル・シドニー・キャンベルは、スコティッシュを起源とする、古くからのものです。
彼の父、つまり私の祖父は、スコティッシュ系カナダ人の2代目です。彼の妻(私の祖母)は、イングリッシュとネイティブインディアンのハーフです。
祖母はオンタリオ南部に住むモホークインディアンの出身なのです。
このモホークというのは、イコロイ族から枝分かれした部即で、いくつかのネイティブインディアン部族の中でも、唯一農業で生活していました。それも、ヨーロッパから北米に白人が渡ってくるずーっと 前から。
私も父も、このモホークの血を引いているという事実を、とても誇りに思っているのです。
祖母が亡くなったのは父が14歳のときでした。そのせいで幼い弟や妹の面倒を見るため、父は学校をやめなければなりませんでした。
2. エド・キャンベルの誕生
農業労働者として働く父1963年、仕事を探すために父は、祖母の農場を訪ね、そこで農業労働者として働くことになりました。
私が言うのもなんですが、父はハンサムで、とても穏やかな人柄でした。
そこで、私の母となる女性と巡り会いました。二人は一緒に働き、仕事の手が空けば、農場のそばの野原や山を歩き回っていたそうです。そして当然の帰結のように愛し合うようになりました。
その当時、国は大変な不況にあり、人々は職も無くお金もありませんでした。そんな状況下で結婚し、家族を養うことの困難さは、想像に難くありません。しかし、父と母は勇敢であり、何よりも強く愛し合っていました。
エドはトロントで生まれた
折よく父はトロントに職を得たこともあって、通勤に便利なようにとトロントに引っ越しました。そして1938年、二人の最初の子供、長男である私が生まれました。
制服の父と、母、私(左)、ボブ(右) |
ここで父の全人生を語るわけにはいきません。ですから、彼の人生で特別の意味をもち、私に多大な影響と思い出を与えてくれた事柄に絞ってお話してみたいと思います。
空軍に参加した父
1942年、私が4歳、弟のボブが2歳のとき、父は空軍に参加しました。ヨーロッパで戦線が拡大し、父は祖国カナダへの義務を果たそうと考えたのです。
陸軍で戦うことは避けたかったようで、飛行機を修理する技術者として採用されました。実際には父はヨーロッパには派遣されず、カナダに留まり、訓練用に使われる飛行機の修理と整備の仕事に携わりました。
父が手がけた飛行機で訓練を修めたパイロットたちは、やがて戦うためにヨーロッパへと飛び立っていったのです。この戦役に従事している間、父は家に帰ることを許されず、時には遠隔地まで派遣されました。父と母はお互いに寂しい思いをしたはずですし、私自身も、この時期の父のことはよく覚えていません。
4日間モカカルカルガリーに派遣
1944年、父は家から3000kmも離れたカルガリーに派遣されました。年に一、二度、10日間の休暇を与えられましたが、一番の問題は鉄道でも移動が片道4日間もかかることでした。ということは、家族とともに過ごす時間が2日間しかないということです。
その年の夏、私と弟は母を手伝い、父が帰るための旅費を捻出するために、100羽のニワトリを飼い、それを売りました。それは私と両親にとって、とてもエキサイティングな出来事でした。久しぶりに父の顔を見ることができて、私はとても幸せな気分でした。青い制服に身を包んだ父は、いつもよりハンサムに見え、そんな父を誇りにさえ感じました。
私の6歳の夏は、そんな思い出に彩られています。
3.特別な場所への釣行と家族のための家づくり
戦争が終わり、家に帰ってきた父は、よく私を近所の森へ、長い散歩に連れ出した桃です。森の近くを流れる小川にたたずんでは、カエルやカメ、小さな魚を見せてくれました。また時には銃を抱え、ウサギやキジを仕留めたりしました。母はその獲物を料理し、家族全員で森からの贈り物に舌鼓を打ったものです。
父と、父の一番上の兄ビルは、ともに釣りが大好きで、毎年トロントから300kmも離れた湖の多い、特別な場所へと出かけるのを習慣にしていました。私はこの旅の様子や、釣り上げた大きな魚の放しを聞くのが、とても楽しみでした。
忘れられない釣りの旅
私が9歳、弟が7歳のとき、父はこの特別な場所に私たち二人を連れて行く決心をしました。叔父のビルも。彼の二人の息子を連れて来ました。この出来事は私にとって初めての、そして忘れられない釣りの旅になったのです。
我々は小さな小屋に泊まり、自分達で料理も作りました。釣りの調子は上々で、大きな魚がたくさん釣れました。釣りの方法はこのとき教えてもらったのです。その後、年に何度もこころ訪れ、そのたびに楽しいひとときを過ごしました。
今でも私が釣りを好きなのは、この当時の思い出があるからかもしれません。
4. 父とともに家を建てる
私と弟のボブが手伝って建てた白い家 |
その理由は、全て資金的なことで、建築仕事の大半は自分の手で行わねばならなかったのです。
そして、私たち兄弟は、十分手助けできる年齢に達していました。
父と兄弟の力を合わせて家づくり
平日はゼネラル・モーターズでの仕事を終えた後に、そして週末や休暇を利用して、父と私たち兄弟は家の建築にあたりました。
基礎づくりのためのコンクリートをこねたり、壁にウッドサイディングを貼ったり、屋根をウッドシングルで葺いたり、塗装をしたり、その他さまざまな仕事を手伝いました。
苦労の甲斐あって念願の家に引っ越し出来たときは、みんな誇らしく思えたものです。
父とともに成し遂げたこの家づくりの思いでは、今では特別なものになっていますが、当時はそれほどの思いはありませんでした。なぜなら、いつも喜んで働いていたわけではないし、時々父を怒らせもしました。今思えば完璧な息子ではなかったのでしょう。
5. 私自身の独立と親子の最後の釣行
父はアーチェリーが好きで私たちにも教え てくれた |
前年の夏、トラックを運転して建築資材を運ぶことで、自分の手でお金を稼いでいました。自分の力で生きて行く術を、この時学んだのです。
学校を止めることに対しては、もちろん父は反対でした。しかし私は、父の言葉に耳を貸そうとはしませんでした。やがて私の決心の固さを知った父は、電話会社に就職することを助言してくれました。そのアドバイスどおり、私はベル電話会社で電線工として働き始めました。
1956年2月7日。私は17歳になっていました。