エド・キャンベル物語 第7回 ログの仕事をスタート
日本でもなじみの深い、カナダのマスタービルダー
エド・キャンベルの自伝
■主な内容
念願のログハウスの完成
新しい生活のエピソード
この経験でログハウスを仕事をする決意をし
ログビルディングの技術を学び始める
エド・キャンベルの自伝
■主な内容
第7回 ログの仕事をスタート
第8回 ログビルダーへの道
第9回 父の思い出 前編
第10回 父の思い出 後編
第11回 一家の新たな冒険
最終回 ログハウスを建てたかった理由
第7回 目次
関連ペイジ
→エド・キャンベル紹介
→エド・キャンベル (雑誌記事)
1.内装工事に着手
娘のブレンダ |
私たちの新しいログハウスが辺ぴな田舎にあったことが、子供達、ブライアンとブレンダに、ちょっとした問題をもたらした。
カントリーサイドには学校がないので、二人は毎日スクールバスに乗ってカムループスまで行かなくてはならない。毎日往きに1時間半、帰りも同じくらいかかる。スクールバスを運転していた女性は私たちの家の隣に住んでいたので、二人は朝一番にバスに乗り、帰りは一番最後に降りるということになる。
BC州の冬の日は非常に短いので、ブライアンとブレンダはまだ暗いうちにバスに乗り、帰る頃はこれまた真っ暗である。子供たちの帰宅のためのこの長いバスの時間を利用して、もっぱら宿題をやっていた。これだけが、このバス通学の長所だった。
鹿やクマに出会う通勤を楽しむ
私自身、電話会社への車での通勤に毎日多くの時間を要したが、私にとって、カントリーサイドを通ってのこの通勤は楽しみだった。時には鹿、ムース、くまなどが道路を横切るのにでくわしたし、ボブキャットを見たことも一度ある。この主の野生の猫は非常に少なく、稀にしか見ることはできない。足が長く値体重は25kgぐらいでネズミやウサギを食べて生活している。
ピナンタンの自然 花 |
牛はとても丈夫
牛たちに、餌となる干草を与えているのを見ることも出来た。夏になると牛たちは、牧草が豊富に生い茂る山へと放たれ自由になる。
しかし、また冬が来ると、牛はおいしい干草が食べられる牧舎のある低地へと下りてくるのだ。
牛はとても丈夫で生命力が強く、気温が氷点下40度まで下がっても、平気で屋外で生活していた。
春になると牛は繁殖期を迎え子牛を産むのだが、時には早まって雪の中で生まれてくるものもいる。そんな子牛でさえ、寒さの中でたくましく立派に成長していくのだ。
2. 地下室に住みながら仕事を続ける
ピナンタンの自然 動物たち |
寝室とトイレを仕切る壁を立ち上げなければならなかったし、ドライウォール(石膏ボード)はもちろん、ほかの全ての内装を仕上げなければならなかった。室内のドアにはウエスタン・レッド・シダー(カナダ杉、ログハウスの材としては最高級品)を使った。
アンティークの古いバスタブ
それらが終わると電気配線と設備の工事をした。アンティークの古いバスタブを買い、アイリーンはカムループスに住む人に頼んで、赤い色に再塗装してもらった。非常にいい塗料をつかったので、美しい出来栄えだった。
階段がクラフト作品の第一号
次に私は、ロフトへ上がる階段を組み、細い丸太で手摺をつくった。
今思えば、それは私のクラフト作品の第一号だったのだ。
アイリーンと私は、頑張って室内のログをきれいにし家の内部塗装に精を出した。彼女は毎日働き、私は夕方仕事から帰った後と週末を利用して働き続けた。
何よりも、地下室から上の階へと移ることを熱望していた。
牧場での牛集め。 子牛には烙印を押す |
クリスマスパーテー
それでもやはり、クリスマスには休暇を楽しんだ。当時私の勤める会社では12月になると、スタッフ全員によるクリスマスパーテーが開かれた。
このパーティーにはユニークな催しがあり、会社の各部門ごとに、パーティーの会場となる大部屋の飾りつけをし、ディスプレイの良しあしを競うのである。
ミニチュアのディズニー城
その年の私たちの飾りつけは、ディズニーランドに決定した。そこでアイリーンに協力してもらって、ミニチュアのディズニー城を製作することにした。
さいわい私たちの住むログハウスには、それだけのスペースがあったのである。
お城の下には池を作り、金魚を泳がせ、本物の草木や花も置いた。アイリーンもキャラクターに色を塗ったり飾りつけを心から楽しんでいるようだった。 さて出来上がってディスプレイを会場へと運び、いざ本番になると私たちの部門は、その年のベスト・ディスプレイ賞を受賞した。
新しいログハウス造りに忙殺された一年の終わりの、リラックスした楽しいひと時であった。
冬のピナンタンに建つログハウス |
冬、雪に覆われ、湖は凍りつく
本格的な冬がやってくると、私達の住む地域は一面の雪に覆われ、湖は凍りつく。
スキー、橇でのダウンヒル、氷穴フィッシングに最適のシーズンの到来だ。ログハウス造りの忙しい合間を縫って、時にはカントリーライフを心から楽しむようにした。
お隣さんと集って、暖かいログハウスの中でパーティーを開いたり、屋外でスノーモービルを走らせたり、雪の中での馬駆けを一緒に楽しんだりした。
ロフトへと続く階段 |
持病の膝の悪化で入院
1974年の春、私は持病の膝の悪化のため入院することになった。もう何年もの間我慢してきたが、そろそろ本格的に治療する必要が出てきたのだ。
1週間を病院で過ごした。手術は無事成功したが、傷を完全に癒し、仕事に復帰できるようになるまでは大分時間がかかりそうだった。
私は表向きには自宅で療養していることになっていたが、家の中では膝のリハビリを兼ねて良く動いたため、膝の調子はすぐによくなった。
2週間もするともう歩けるようになり、少しくらいなら走れるようにもなってので、ログハウスの仕上げ作業に取り掛かり始めた。
時にはまだ杖をついて歩かなければならなかったが、注意深く梯子に上り、高い所での作業もこなした。電話会社の仕事には戻れなかったが、ログハウスづくりの仕事は出来たのだ。
3.ログハウス建築家になることを決意
キッチンで食事の支度をするアイリーン |
テレビに視線を移した私は、その場で、彼のログスクールに入校することに決めた。
スクールに入校してくる人の全てがログハウスづくりに未経験者だったため、私は特殊なケースだった。既にログで家を1棟建てた経験を持っていた私は、特別のコースを申し込んだ。
新しいキャリアを摸索
このころ私は、自分の新しいキャリアについて考えていた。電話会社の仕事も嫌いではなかったし仕事もできるほうだったが、何か違う、自分だけの道を行きたかった。私はもっとログハウス建築を学びログハウス建築家としての道を歩いていくことを決意した。
電話会社の仕事は非常に安定した良い仕事だったので、友人の多くは私が気でもふれたのかと考え、その考えを捨てるようにと忠告してくれた。アイリーンは理解してくれたが、やはり先行きを心配していた。
スクールに通う4ヶ月間は、全く収入のあてはなく、その後にしても、ログハウスの注文があるという保証もなかった。しかし自分自身を信じ、何とかこの道で成功してみせる、と決意していた。
やっとログハウスで暮らせる
74‘年8月、アラン・マッキー・ログビルディングスクールの入校の通知が来て、私は会社に退職願を出した。その夏、ようやくログハウスの内装の仕上げが終わり、上の階へ移り住むことになった。
やっと自分たちの手で造ったログハウスの中で暮らせるようになったのだ。
息子のブライアンはロフトに、娘のブレンダは1階に、それぞれ自分達の部屋を持ち、アイリーンと私は二つのクローゼットの付いた大きな寝室を手見入れた。ほかにキッチンとリビングが一体となった広い部屋があった。
それは素晴らしい家で、多くの人が見学に来てくれ、手作りログハウス建築を仕事としてやっていくという夢の実現に、自信をもつこが出来た。
4.新たな生活でのエピソード
子山羊のハイジは、ブレンダのペット |
夏、ブレンダに子山羊をプレゼントした。
子山羊はこちらでは「キッド」と屋ばれる。彼女は、スイスの高原に住む少女の物語、あのアルプスの少女「ハイジ」にちなんで、子山羊の名前をハイジとした。
私たちの住んでいた地域には、あちらこちらに山羊がいた。大の動物好きなブレンダは、ハイジをも可愛がり、ハイジも彼女の後をどこでもくっついて歩いた。ハイジが大きくなるにつれ、いくつかのトラブルが生じてきた。外の洗濯路ロープに乾かしてある着物を取って食べてしまったり、ドアを開け放しにしておくと地下室に下りて行き、荒らしてしまうのだ。
我が家の一員 愛犬のバスター |
ハイジは地下室が好きで、一度中に入ると外に追い出すのに一苦労だった。私の車の上に乗って車を傷つけたり、ある時など、私の弟(10歳年下のドン・キャンベル)の車を傷つけて、弟を大変怒らせてしまったこともある。それでも私たちは、皆このいたずら好きの山羊が大好きだった。犬のバスターも、ハイジとはとても仲良しだった。
ほかにも鶏、アヒル、馬のクローニなど、たくさんのペットがいた。
鶏は毎日食卓に並ぶ新鮮な卵を産んでくれた。アヒルは、食用にするため小さいのを4羽買ってきて、
大きく育て、その内の2羽は予定通り食用にしたのだが、残りの2羽は可愛くなってしまい、どうしても殺すことができず、以後家族のペットとなったのである。犬のバスターが逃げ出さないように見張ってくれるので、敷地の中で放し飼いにすることができた。
ペットのアヒル |
我が家で飼っていたニワトリ |
たった一日の間にたくさんの災難が
この頃私は、ピックアップ型のトラックを手に入れた。かなり古い代物で、おもに町から建材を運んでくるのに使った。
ある朝私は、町に行かなければならない用事があり、ブレンダをつれて車で出かけた。
最初の目的地はカムループスの町の近くの小高い丘の上にあった。しかし出かける前にガソリンのチェックを忘れていたため、町から遠く離れた場所で、トラックのエンジンがガス欠で止まり、ガソリンを分けてもらうために、私たちは近くの農家まで歩かなければならなくなった。
幸い天気の良い日だったため、私と、当時10歳だったブレンダは、散歩気分でこのハプニングを楽しんだ。
ところが、その後、私はまたもや町でガソリンを入れるのを忘れ、ガス欠を起こしてしまったのだ。
自分を恥じながら、またしても起こしてしまったハプニングを、それでも娘と楽しみつつ、近くでガソリンを分けてもらった。どうやら家まで無事に帰ることができそうだったが・・・。
その日の出来事を笑いながら走っていると、私たちの前を走っていたキャンピングカーが突然ブレーキをかけた。私もとっさにブレーキを踏んだが、効かない。
「突っ込むのは御免だ!」と、右に急ハンドルを切り、そのまま道端の農場の木柵に乗り上げた。
私たちは何とか無事だったが、木柵は壊れてしまった。こんなにたくさんの災難がたった一日の間に起こるなんて・・。
今でも思い出すと、おかしくてならない。私と娘の最も強く記憶に残る思い出である。