エド・キャンベル物語 第1回 自然に親しんだ少年時代
日本でもなじみの深い、カナダのマスタービルダー
エド・キャンベルの自伝
■第一回の主な内容
自然と動物達に囲まれた育った少年時代
遠いその頃の思いでが、後にログビルダーを志す
道へとつながっていく
エド・キャンベルの自伝
■第一回の主な内容
道へとつながっていく
第1回 自然に親しんだ少年時代
第2回 家族との楽しい日々
第3回 初めてのログハウス造り
第4回 子供の頃からの夢の実現
第5回 丸太を手に入れ、いざ開始
第6回 ログ工事の開始そして引越し
第1回 目次
関連ペイジ
→エド・キャンベル紹介
→エド・キャンベル (雑誌記事)
エド・キャンベルのクラフト作品
1.連載開始にあたって
担当記者日本でもよく知られるカナダの名ログビルダー、エド・キャンベル氏。
アランマッキー氏が、ビルダーたちの精神的支えだとすれば、キャンベル氏は、技術面における重鎮でしょう。カナダのビルダーたちを組織し新しい技術を取り入れたことは、ログハウスに詳しい方ならばご存知のはず。
その意味では現在のカナディアンスタイルのログハウスを確立した人物ともいえます。
そんなキャンベル氏が、自らのおい立ち、ログハウスへの関わりを語ってくれました。
文中にもあるように、ここには技術的な話は出てきません。語られるのは自然を友として暮らした日々、そして家族のこと。
しかし、そんな普段の生活風景を垣間見るうちに、ログハウスの本質が見えてきはしませんか?
家族との絆、手づくりする歓び、それらはすべてログハウスには不可欠なのかもしれません。
「日本とカナダでは条件がちがう」などと言わずに、もっと広い心で読んでもらいたいと思います。
それこそが、ログハウスが本当に意味するところなのですから。
・・・・なお、そのエド・キャンベル氏に憧れ、カナダでともに働いた平川隆一のカナダ印象記も併載しています。
エド・キャンベル
1983年以降、私はビジネスを通して日本と関係を持ち、お付き合いさせていただき、いろいろな素晴らしい方々と時間を共にすることが出来ました。
日本はとても美しい国で、そこを訪ねた時の記憶は、私の人生のなかで、大切な財産となっています。
私がこれからお話しようとすることは、ログハウスの話題でも、建て方でもありません。
私の生活とカナダの人々の、ある意味ではとても素朴な生活や考え方を紹介していこうと考えています。
この雑誌を通じ、ログハウスだけからでは知ることの出来ないカナダを知って頂きたいのです。
いままでログハウスを通じては、私のことが日本にも紹介されたことがあります。
しかし、こうして私自身のことをお話するのは、これが初めてです。
私の生まれたころ、少年時代を過ごした農場での暮らし、恋多き青春時代、そして孫を持つ現在まで・・・。
2.オンタリオで生まれた元気な赤ん坊
最初の稼ぎは赤ん坊の時1938年11月23日、私はカナダのほぼ中央、オンタリオ州トロントに生まれました。
快晴で、空気が澄んだ初冬の日でした。
私と母 |
母が産気づいたその朝、仕事に行かなければならない父に代わって、祖父が母を病院に連れて行きました。
当時は大恐慌で、失業者があふれる街の中で手にいれた貴重な仕事を、父は休むわけにはいかなかったのです。
昼前に、私は生まれました。体重は4kg、とても元気な赤ん坊だったそうです。
孫をもつ現在でも、健康で丈夫な体には、とても感謝しています。
生後8ケ月のとき、母は私をベビーコンテストに出し、見事に4位に入賞しました。その時にもらったいくばくかの賞金で、母は私に、一足の靴(私の生涯で最初の靴)を買ってくれました。
私が自らの体(?)でかお金を稼いだのは、実は赤ん坊の頃だったのです。
父と過ごした大切な時間
幼いころよく父は、私を野山や森へ連れ出しました。
そこでウサギや鳥たちに出会い、池にはカエルが飛び跳ね、木々にはリスが戯れていました。
その頃から私は、自然を身近に感じ、どんどん好きになっていったのだと思います。
庭を荒らすカラスを父が打ち落とした。その記念の写真 |
近くの渓谷にはきれいな流れがあって、そこには小さな魚たちが棲み、ジャコウネズミ(マスクラット)がやってくる所もありました。
ある冬の寒い朝、川面に透き通るような氷が張りました。
その薄氷の下を、美しく優雅に泳ぎさる一匹のジャコウネズミの姿を、一瞬、はっきりと見て取ることが出来ました。父と過ごした大切な時間の一コマとして、今でも私は、その光景を思い出すことが出来ます。それは私が4歳のときでした。
3.農場で暮らした少年時代
祖父母の経営する農場に引っ越したのは、私が8歳のときでした。その農場は主に乳製品を扱っていましたが、鶏や七面鳥、豚、山羊なども飼っていました。 50haほどの農地もあり、そこでは麦、オート麦、コーン、干草、そして私たちの食卓を彩る野菜を育てていました。
祖父母の住んでいた農場 良き子供時代を過ごした地でもある |
全ての農作業は、馬に頼っていました。
1964年当時、エンジン付きのトラクターを持っている農家なんてほとんどなかったし、何よりも馬を信頼し、家族の一員のように大切に扱っていました。
おまけに維持するための費用もたかがしれていましたからね。
そう、リンゴやチェリーや洋ナシを育てていた果樹園もありました。
その頃不思議に思ったことのひとつに木によって、出きるリンゴがそれぞれ違うことでした。
ある木のリンゴはそのまま食べるのに丁度よく、別な木からとれたものは、パイにして食べるのに都合がよく、また他の木から取れたリンゴは非
常に日持ちがよく、冬の間中、保存がきくといった具合に。
祖父の90歳の誕生日 |
これらのリンゴはもちろん、他の作物もすべて、化学肥料なんかは使っていませんでした。今流行の有機栽培というやつでした。
そこで取れた作物が健康に悪いはずがありません。どうしてかって?なぜなら私の祖父は94歳まで生きたし、祖母は88歳まで、私の両親にいたっては、80才をとうに過ぎたにもかかわらず、いつまでもピンピンしています。
先日もフォードの新車を購入して、二人仲良く乗り回しているのですから。
4.自然や動物達に囲まれて育つ
私が子供の頃は、本当に自由に野山や森を駆けることが出来ました。私が通う学校(といっても教室は二つしかありませんでしたが)までは、片道3.2kmの距離がありました。
毎朝、弟たちや近所の子供たちと一緒に登校するのですが、その途中、自然の生き物や植物に接する機会が一杯ありました。
祖母が木々や野山の草花、動物や鳥たちの名前を教えてくれたお陰で、今でも私は、鳥のさえずりや動物の気配で、それがなんであるかが分ります。
弟のボブとともにボーイスカウトに入隊 |
自然の創造物は時として、私たちの食卓にとても素敵な贈り物をしてくれます。子供のころ私は父に連れられ、大きくなってからは一人で、森へハンティングに出かけるようになりました。
運よく七面鳥は雉を手に入れることが出来れば、これらの獲物は母の手によって調理され、食卓を彩ってくれるのです。そして、私たちは自然の恵みに感謝しながら頂くのです。
私に食物の栽培を教えてくれたのも祖母でした。
春になると私は自分の小さな庭に、ラディッシュ、レタス、ニンジン、トマトなどを植えるのです。
やがてそれらが育ち、十分に実ると、我が家の食卓の片隅に加えられます。その時の誇らしかった気持ちは、今でも覚えています。 いまでもそれが習慣になって、春がくると、庭にある菜園の準備で、私は急に忙しくなるのです。