エド・キャンベル物語 第8回 ログビルダーへの道
日本でもなじみの深い、カナダのマスタービルダー
エド・キャンベルの自伝。
いよいよログビルダーとして 道を切り開いていく
■主な内容
エドの最初のログビルディングスクールは大成功を収め
無事スタートすることができた それから多くのログハウスを手がけ、エドの改良、開発
技術は、その後生まれたログビルダダーたちの模範に
なっていく。 その間には三浦と組んで日本への第一号のログハウス
も手がけた
エド・キャンベルの自伝。
いよいよログビルダーとして 道を切り開いていく
■主な内容
無事スタートすることができた
技術は、その後生まれたログビルダダーたちの模範に
なっていく。
も手がけた
第7回 ログの仕事をスタート
第8回 ログビルダーへの道
第9回 父の思い出 前編
第10回 父の思い出 後編
第11回 一家の新たな冒険
最終回 ログハウスを建てたかった理由
第1 回に戻る第8回 目次
関連ペイジ
→エド・キャンベル紹介
→エド・キャンベル (雑誌記事)
1. ログのサウナハウスを建てる
野外少年院のある トラッピングレイクの湖畔 |
74‘年9月4日、私はアランマッキーログビルディングスクールに入校するため、BC洲プリンスジョージへと旅立った。幸い友人の父の部屋を借りることができた。
スクールの授業は毎日行われた。2〜3日たつと、私はログビルディングについて更に深く学ぶことがたくさんあるのに気付いた。しかし、ほかの全ての生徒は全く経験がない。チェーンソーやオノ、ノミの使い方といった、ごく初歩的なことから学んで行かなければならなかったので、私はもっぱら教える側に回りはじめた。同時に、更に進んだスキルを、自分自身で勉強した。
キャンプでは冬になると氷に穴をあけて泳ぐ |
野外少年院のサウナハウス
丁度その頃、プリンスジョージの近くにある、特別な少年向けのキャンプについて知った。ここは言わば野外少年院で、大自然のなかにあるため塀はなく、14歳から17歳の比較的罪の軽い少年たちが生活していた。彼らはまた、野外活動や自分自身の身の回りのことについても学ぶのである。
キャンプの中にシャワー施設がないため、少年たちは、湖畔にある小さなサウナハウスを風呂代わりに使用していた。1週間に二度、サウナに火をいれ、座って汗をかき、石鹸で体を洗い、泡のまま湖に飛び込んで洗い流すのだ。夏はよいのだが、冬になると湖が凍結するので、少年達は氷穴を掘って飛び込
少年院のキャンプに建てたサウナハウス |
まなければならない。この辺りの冬の気温はマイナス35度、水温は0度と実に冷たい。彼らは、年間を通じて週に2度サウナを楽しむ。土曜日になると、少年達は町へ出ることを許可されていたが、キャンプからプリンスジョージまでの24kmは走らなければならない。町ではバスケットボールを楽しみ、シャワーを浴びたり、時には映画を観たりして、帰りはキャンパスまでバスを使えたが、問題を起こすことはなかった。
このキャンプで新しいサウナハウスを建てたがっていることを聞き、私は「自分が建ててあげよう」と申し出、許可された。
私にとっても新しいログビルディング技術の勉強と考えていたので、お金は取らなかった。週末や手の空いた平日、私はキャンプに通い、少年たちにログビルディングを教え込んだ。彼らは私の下でよく働き、湖畔に、脱衣所付きの新しいサウナハウスが完成した。私たちは全員でサウナに入り、湖に飛び込んだ。気温マイナス35度、強い風が吹いていた。あの時の寒さは生涯忘れないだろう。
リビングを飾る大きなクリスマスツリー |
クリスマスを新しいログハウスで
12月15日、スクールも無事終了し私は家に戻ってきた。何よりも新しいログハウスで、家族とともにクリスマスを祝いたかったのである。
家の中には大きなツリーを飾るのに十分なスペースがあったので、高さ4.5mの巨大なクリスマスツリーを置くことにした。私たちは、梯子を使ってさまざまな飾りつけをし、アイリーンが焼いたクッキーなどを飾り付けた。多くの友人や知人がこのビッグツリーを見に訪れ、私たちは素晴らしいクリスマスを過ごした。
2. カレッジでログビルディング・スクール開講
技術を教える立場でマッキースクールに戻った |
年があけて1975年の1月になると、私は新しい仕事をどんな風に進めていったら良いものかを決めなくてはならなかった。
プリンスジョージでは、ログビルダーとしての腕を磨く機会や、ログビルディングを教える機会はたくさんあった。
私はカムループスのカレッジに、週末と夜間に行う大人向けのログビルディングコースを開けないかと尋ねてみた。この提案は受け入れられて、私は生徒募集の広告を出した。
私の最初の講義の生徒たち |
こうしてログの仕事がスタートした
講義は延べ8日間で、週末には生徒たちに、私が2棟目のログハウスを建て始めたピナンタン・レイク湖畔のビルディンングサイトへ来てもらった。非常に熱心な生徒もいれば、見ているだけの生徒もいたが、皆とても楽しそうにやっていた。
新しい技術を学ぶ生徒たち |
このようにして、私のログビルディングの仕事はスタートした。当時は利用できる情報もほとんどなく、自分自身で多くのことを学ばなければならず、決して容易なスタートではなかった。私が考案した新しい技術は、今日でも多くのログハウス会社に採用され、使われ続けている。
ピナンタンでの最初の授業に使った道具 |
最初のコースの受講者たち |
3.伝統は生き続ける
生徒たちに手伝ってもらって建てた2棟目の ログハウス。これはカムループスに運んだ |
エドの後を継いだブライアン
彼は今でも自分の経営する会社で、ログハウスを造り続けている。我が家の伝統は生き続けているのだ。今は3人の子持ちで、息子(私の孫)はそろそろ13歳になる。
アイリーンとブレンダ
日本で最初に手がけたログハウスのパーティー に集まった面々。左から2番目が三浦亮三郎氏。 隣が私 |
女性となった。そのことを私は 誇らしく思っている。
彼女は相変わらずの動物好きで、今は山の麓のカントリーサイドに暮らしている。
アイリーンは現在「ジンジャーブレッドハウス」という喫茶店(これも私が造った家)という喫茶店を経営している。夏になると多くのお客様が訪れ、彼女は人気者である。彼女はお客様を親切にもてなし、長年にわたって私たちのしてきた数々の冒険について、話を聞かせたりしている。
私はログハウスづくりの仕事を‘75年から’95年まで続け、息子であるブライアンに継がせた。
そして今、新しいタイプの家と、その関連商品を、友人であるフロンティアワールドの三浦亮三郎氏と協力しあって、日本の皆様へお届けしている。
蓼科に建てる予定のログ | ログサイトで作業するエド |
蓼科の現場でログワークをするエドとスタッフ |
■三浦の依頼を受けて、予備校のセミナーハウスを
蓼科にログで建設した。
これは カナダから日本へ輸出したログハウスの 第一号であり、そのことをエドはとても誇りに感
じている。