「 山小屋をログキャビンで」という夢
ログに魅力のとりこになり、ついにカナダへ。
エド・キャンベルの元へ押しかけ社員に
労働許可書を得るのに苦労し、諦めかけるが・・・
第1回 ログビルダーの冬と春
第2回 コミュニテーに溶け込む
第3回 スコッッチクリークの夏
第4回 ログビルダーへの憧れ
第5回 開拓者の末裔たち
第6回 ログハウスを造るということ
第4回 目次
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1.ログの不思議な魅力のとりこに
ログハウスを造りたくて仕方がなかった。丸太と丸太の重なり合うログの刻みをマスターしたかった。
あの、一見無骨な原木たちが、チェーンソーで刻まれ、積み重ねられ、姿を変え、いかにも力強い、ごつごつとしたログハウスに仕上がってゆく。時には、丸みを帯びた、優しく美しい女性のような雰囲気をかもし出す建物に化けてしまったりもする。
私は、いつかそんな不思議なログに魅力のとりこになってしまっていた。少しずつふくらみ、日増しに大きく
なっていく。 私のこの想いをどうしても抑えることができなくなってしまったとき、私は無心でログを刻むことのできる場所を求めて、カナダへ行く決心をしたのだった。
中学生の時、叔父、叔母に連れられて山登りを始め、高校に入学すると迷わずに山岳部に入部した。国内各地の山々に登り、いたるところにある山小屋を訪れては、その脇にテントを張った。そのころからである、私は山での牧歌的な暮らしにぼんやりとした憧れを抱き始め、ログキャビンでの暮らしを考えるようになったのだった。
山小屋のイメージ
木々に囲まれた狭い平坦地に建つ、または森林限界をこえ岩陰に密生するハイマツと並んで建つ、小さな隙間だらけの、質素というよりは殆ど粗末に近いログキャビン。
その中で、火をおこし、寝袋にくるまり、潰れて少し形の変わってしまった愛用のホーローカップに注がれたウィスキーを回しながら仲間と語り合う。もしくは、一人静かに物思いにふけったりしてもいい。
そんなことの許される、私だけのとっておきの場所。
窓は、勿論木製サッシなどあるわけもなく、つっかい棒をして押し上げるような、ただの明り採り。屋根はシダーシェイクではなく、杉の木の皮、リージェンシーやバーモントキャスティングの薪ストーブの代わりに、石で囲っただけの囲炉裏。
これが、当時、私が漠然と思い描いていたログキャビンでの情景である。それは、現在のように立派に建
つ住宅としてのログハウスとは、まったくといっていいほどかけ離れたものであった。
2.エドの元へ押しかける
‘89年2月、ついに、私は胸にぎっしり詰まった想いをエドに伝えるため、カナダで車を飛ばしていた。私のこの想いは、ログハウスを見たり、触ったりしたいというような軽々しいものではなく、そこに住んで、ログビルダーとしてログハウスづくりに携わりたい、という一大決心だった。
カナディアン・ログビルディング協会
その前年、CLBA(カナディアン・ログビルディング協会)の第15回総会がBC洲プリンスジョージのアランマッキー・ログビルディングスクールで行われ、そこで初めてエドに会うことが出来た。そのとき彼とは殆ど話しを交わす機会がなく、しょせん遠い存在の人であった。そしてそれ以降も何度も手紙を出してみたのだが、私の期待するような返事は一度も来なかった。
突然オフィスに現れた私を、エドは、笑顔で快く迎えてくれた。
「とうとう来ちゃったんだね」 そういって彼は半ば困ったような顔をしたものの、この突然の訪問者を、
オフィスのなかへと招きいれてくれた。
そこは、広大な作業場の隅にちょこんとある、銀色のトラックのコンテナを改造したようなオフィスだった。
そこでエドは、フローレンスという、日系三世の夫をもつ秘書のおばさんと、ああでもない、こうでもないと言いながら、図面を見たりファックスを送ったり、電話をしたり、その合間に私にコーヒーを注いでくれたりした。
しばらくして、エドはやっと私の前に腰をおろした、そこで私は、どれほどの情熱をもって、ログハウスに関わりたいか、そしてログビルダーとして自活したいかを熱心に話した。
すると彼はじっと私の話に耳をかたむけてくれたのだった。
エドは真剣に話を聞いてくれた
実は、私はそれまでに何社にも手紙を書いていたし、面接にも出かけていた。しかし、これほど真剣に私の話を聞いてくれた人は誰もいなかった。
ひととおり私の話を聞いた後、エドは再び私のカップにコーヒーを注ぎながら、「まず、私のスタッフを紹介させてくださいね」そう言って、私をワークサイトへと誘った。
私たちが顔を出すと、今までワーンと共振しあっていた何台ものチェーンソーがいっせいに止まり、スタッフ全員が集まってきた。
皆驚くほど親切に私に接してくれ、ニコニコしながら話しかけてきた。
今まで訪れたことのある、どのログメーカーでも、ビルダーたちは、与えれたログを刻むために目が血走っていたし収入を上げることばかりに必死なようにしか見受けられなかったものである。
今まで、ワークサイトのビルダーたちの和やかなつながりなど感じたことがなかったが、ここで働いている人たちは、何と穏やかな表情をしていたことか。
ビルダー達に感じた強い情熱と誇り
○エドの息子のブライアン・キャンベル
○ブライアンの同級生の、お人よしのアル・ウエストランド
○彫刻をしたり、木に細工をすることにかけては天才的な
アイデア、実行力を発揮するビル・ワイヤット
○アメリカから来た元ヒッピー、やせていて背丈が2mほどもある、数学や建築設計の天才ビル・ウエッティントン
(通称ボーディ)
○隣町セリスタにある、サニーサイドストアの息子ダレル・ラスムッセン
○ノバスコシア州からやって来たリチャード・コミエ(マッキースクールでの私の同期生)
○ ドイツ出身のレンバート
○祖父が昔、斧でログハウスを刻んでいたという北欧出身の大男アロ。
皆、素朴で親切な人たちの集まりだった。
後に一緒にワークサイトで作業するようになってから分かったことだが、彼らは、与えられ、刻まなければならない丸太を相手に、あくせくしているのではなく、一本一本の丸太に対し、自分達がログハウスを造り上げているのだという強い情熱と誇りを感じている。
仕事は与えられるものではなく、作り出していくという姿勢や、丸太を素材として建物をクリエイトしていくという喜びや楽しさが、彼らにはあるのだ。
エドが集まった全員に聞いた。
「この小さな日本人を、私達のスタッフに加えようと思うのだが、皆は賛成だろうか?」
すると、全員が賛成してくれた。エドは、OKと言って私を連れてオフィスに戻った。
3.苦労した労働許可書の取得
労働許可書を得るのは不可能?
エドにとって、これからが大変だった。外国人の私を雇うには、労働許可書を取得しなければならないのだ。さっそくエド、エドの妻アイリーン、秘書のフローレンスの3人は、私の労働許可取得のために、あちらこちら調べてみてくれた。
カムループスの移民局、マンパワーオフィス(職業安定所)、BC洲政府、 知り合いの職員など、出きるだけの糸口、可能性を探ってくれたのである。
職種によっては、外国人が労働許可を手に入れるのは、そうたいした問題ではないのだが、ログビルダーとなるとどうも話は少しややこしくなるようであった。
「カナダには、ログハウスを刻むログビルダーがたくさんいるのに、どうして日本人を新たに雇わなければならないのですか?どうして彼でなければならないのですか?」
カナダの経済面、雇用面を考える上で、大変重要な問題が投げられてきた。相手を納得させるに足る、十分な説明と下準備の必要に迫られたのであった。
ログビルダーという職種はなかった
当時、カナダの職種リストに、ログビルダーという職種はなかったように思う。
ログハウス、ログビルダーといっても、多くの人はロギング(木こり)の一種ぐらいにしか思っていなかったようで、私たちはまず、話を始める前にログハウスの説明からしなければならないことがしばしばあった。
もし労働許可が発行された場合、私の職業は一体何になるのだろうか、ふと、そんな不安を抱かずにはおれなかった。
エドは、ずいぶんとあちらこちらのオフィス、窓口をたらいまわしにされたらしい。
なにしろ、ログビルダーとして労働許可を申請するということは、当時はまだ、ほとんど前例がなかったからだ。 彼は、そのつど諦めようと思ったらしい。しかし、そんな彼にアイリーンは言ったそうだ。
「日本からやってきた彼は、今か今かと待ちわびているわ。スタッフの皆もそうよ。諦めないでね。あなた、皆に彼をスタッフに加えるって約束したんでしょ」
私はこの親切で、少しハイカラで、少女のような気持ちを持ち続けるアイリーンおばさんに何度も助けられ、勇気づけられたものだった。
4.そしてついに道は開けた
突然シアトルに3月21日の朝、フローレンスが、突然私に言った。
「今すぐ、シアトルのカナダ領事館に行きなさい」
別にアポイントがあるわけでもなかったし、面接を受けられるという保証もなかった。
しかし、私は愛車であるフォードピントハッチバック、茶色で小さく、おまけにのろまで、マフラーには穴があき、北米大陸を突っ走るバニシングポイントの真っ赤なスポーツカーとは似ても似つかず、おまけにエンジンからはだらだらとオイル漏れを起こすという車で、バンクーバーを超え、一路ワシントン州シアトルへと向かったのだった。
出発のとき、私の車をみてブライアンが言った。
「リュウイチ、お前、バスで行ったほうがいいぞ」
シアトルまで6時間のドライブである。合衆国へ入り、シアトルに近づくにつれ、車の数は増えていった。
私の小さな車は、皆にどんどん抜かれてゆく。
私は、それでも一番右側の車線を、まるで何かに乗り遅れるのを恐れるかのように必死になって走り続けた。車の運転はそれまでにもずいぶんと経験したつもりだったが、あの日のドライブは、今思い出してもげっそりするくらいに疲れてしまったものだった。
カナダのがらがらのハイウエイに慣れていたせいか、混んだ合衆国のハイウエイは非常に走りづらく感じられた。翌朝、私はカナダ領事館へ行った。
念願の労働許可を手に入れる
そこでわたしは、エドからの手紙も書類も何一つ持っていないことに気付いた。
一体誰に何といって説明すればよいのだろう?きっと長い間待たされた後に面接があり、履歴を聞かれたり、ログハウスの説明をさせられたり、ログビルダーとしての経験を問われたりするに違いない。
私は内心、憂うつで仕方なかった。
受付へ行き、どうしたものかと考えていると、労働許可の申込書が目についた。
そこで、さっそくそれに記入して窓口に提出し、手数料としてUS42ドルを払った。
すると、女性係官が、やけに優しく言った。
「名前が呼ばれるまでそこで待っていてくださいね」
ベンチで待っていると、別室から声がもれてきた。どうやら誰かが面接を受けているらしい。
「あなたはダメ、絶対にダメです!もう二度とカナダには入国できません。
すみやかに自分の国へ帰国しなさい」
それを聞いて、私の緊張感はいやが上にも高まった。ここは何て感じの悪い所なのだろう!
30分も待ったころ、人込みでごった返す移民局の窓口から、私の名前が呼ばれた。ついに始まるのだ。
私が緊張した面持ちで窓口に座ると、さっきの女性係官があくまでやさしくほほ笑みながら、ガラス窓越に私に言った。
「ミスター・ヒラカワ、すべての手続きは完了しました。これがあなたの1年間有効の労働許可証です。
ここにサインして、そしてカナダ入国の際にこの書類を入国審査官に渡すように。
そこでビザが発行されます。延長する時は、最寄りの移民局で申請してくださいね。
では、よい旅を。グッドラック!」
手続きは全てが完了していた。面接も何も行われなかったのだ。
それどころか、ただのひとつの質問も受けなかった。
どのログメーカーの担当者に相談してみても、労働許可なんて取れやしないよ、そういわれ続けていたその労働許可証を、ついに手に入れたのだ。
手渡された封筒を握りしめ、私は思わずニコッと笑った。ここは、結構良い所じゃないか!
それにしても、こんなに簡単に取得できるとは、エドとアイリーンは一体全体どんなアレンジをしていてくれたのだろう。
それは今でも私にとって、少し不思議だ。
国境を越えて
国境の町で、ポンコツの愛車にアメリカの安いガソリンを満タンに入れた。
国境を越え、入国審査官にワーキングビザを発給してもらい、カナダのハイウエイを、一路バンクーバーへと向かう。
高速道路の速度標示が合衆国の55マイルから100キロ標示へと変わった。
それを見たとき、ログビルダーとしての新生活が、この国カナダで、たった今、この瞬間から始まるのだなと私は実感した。気持ちが躍るようだった。
オフィスで待っていたエドは、にっこりと笑い、”Welcome to my company” と言って私の肩を軽く叩いた。
アイリーンは私に抱きつき、「よかったね」と言った。
フローレンスは「おめでとう」と言ってくれた。
こうして、私は晴れてログビルダーとしてログワークに参加するようになったのである。
これで思う存分、念願のログを刻むことができるだろう!
まったく、うまい表現をするものだ。