エド・キャンベルの自伝
■主な内容
決めていった。
イメージを変えたかった
第1回 自然に親しんだ少年時代
第2回 家族との楽しい日々
第3回 初めてのログハウス造り
第4回 子供の頃からの夢の実現
第5回 丸太を手に入れ、いざ開始
第6回 ログ工事の開始そして引越し
第4回 目次
関連ペイジ
→エド・キャンベル紹介
→エド・キャンベル (雑誌記事)
1.ログハウスに興味を持った遠因
今回、私が始めて建てたログハウスの話をさせてもらう前に、どうして私がログハウスに興味をもっているかということを、少し話してみたいと思います。時代はずいぶん遡るが、私の住む北アメリカ大陸には、主にインディアンしか住んでいなかった。
彼らははるかアジアからやってきたと信じられており、その中のある種族は、おそらく日本からやって来たとも考えられている。
何千年もの間、彼らはこの大陸を移動し、放浪し続けて自然というものを理解し、あるいは理解しようと努力してきた。同時に自然を愛し、自然の中で、その摂理にかなった生活をすることを学んでいった。
おおよそ400〜500年ぐらい前に、ヨーロッパからここ北アメリカへ、肌の白い人々が大勢移動してきた。
彼らは武器を携え、非常に力強く、時には冷酷でさえあった。そして昔からその地に住んでいた人々の土地を取り上げ、自分たちのものだと主張し、残されたほんのわずかの土地だけをインディアたちに分け与えたのである。
インディアンたちはその土地で、かろうじて生き延び、その土地で、彼ら固有の文化や自然を愛するという独特の考え方を引き継ぎ、語り続けていくことになる。
やがてインディアンの中からもヨーロッパ人と結婚する人々が現れ、そういったカップルが、お互いの文化をミックスさせ、新しい文化を創造していった。
当時のログ・サイト |
日本人の感覚にあい通じるもの
私の曾々おばあさんはモホーク・インディアンの生まれである。
そして私はそのことを、とても誇りに感じている。
彼女はオンタリオ南部のエリー湖のほとりで生まれた。
モホークとはイロコワ族(ニューヨークに住んでいた北米インディアンたち)の内でも、非常に力のある部族のひとつで、カナダでは、彼らは酪農を営む唯一の部族として知られている。
そのような確固たる食料供給源をもっていたために固有の文化を、より一層発展させることが可能だった。
そんな血筋ゆえ、私がどうして自然を好むかといったことや、ヨーロッパからやって来て住み着いた北米の人々の感覚よりも、アジアのひとたち、特に日本人の感覚にあい通じるものがあることを納得してもらえるのではないだろうか。
自然を好むという私の志向が、自然の素材を使い、自然の中にログハウスを建てるという思いに駆り立てているのだろう。自然の中で成長を続ける木、これが家作りに最高の素材なのである。
私のログハウスつくりは、出きるだけ木の自然な姿を残すように、またそれらがもつ本当の美を表現できるように努めることにあった。
2.生まれ育ったオンタリオを離れBC州へと旅立つ
1970年、私たち一家(妻のアイリーン、ブライアンとブレンダの二人の子供たち)は、私たちの生まれ育ったオンタリオ州から遠く離れた、B.C州(ブリティッシュ・コロンビア州)に引っ越した。故郷から4000kmも離れた町へ引っ越すことは、ある種の冒険である。長年努めた仕事を辞め、何のあてもない新しい環境に飛び込んでみることにしたのだった。
オンタリオを離れB・C州へと旅立つ |
いま振り返れば、それは私たちにとって、とても有意義な選択だった。何物にも捕らわれず、束縛されることもなく、私たちはとても自由であり、新しい土地での出来事に興奮し、何よりもみんな健康だった。
B・C州の山々はとても美しかったし、人々は冒険心にあふれていた。もちろん自然は、非常に良い状態で残されていたし、州内ではどこの土地でも空気が澄んでいた。同時にここでは、木々が真っ直ぐに育つことも知ることができた。ログハウスを建てるにはあまりにも理想的なのである。
3.14歳の時から抱いていた夢の実現
農場に暮らしていた14歳の時、私はログキャビンづくりのための小冊子を手に入れていた。その小さな本を繰り返し読むうちに、ログキャビンの絵や写真が、私の頭にしっかりと焼き付いていたようである。 「いつかきっと、こんなログキャビンを手に入れてやろう」、いつしかそんな夢を抱いていたに違いない。
いまでも 私は、ログハウスを知るきっかけとなったこの本を、大切に持っている。
B・C州に移って最初の一年半、私たちはカムループスという町に暮らしていた。この町には、小学生のころから仲良くしていた友人が住んでいて、彼もアウトドアが好きで、よく二人して、キャンプに出かけたり釣りをしたりと、自然の中で自由に遊びまわったものだった。
ピナンタン・レイク付近の風景 |
カムループスに住み始めてしばらくすると、いつしか鳥のさえずりを耳にすることも、鹿の群れに出会うこともなくなっていることに気づき始めた。
妻のアイリーンも私も、心のどこかで、都会から離れた片田舎の隅っこで暮らすことを望んでいたのだろう。次第にカムループスという都会の雑踏や、町に住む煩わしさから開放されたいと願うようになっていた。
間もなく私たちは、町から25kmほど離れた、小高い丘の上にある湖のほとりの土地を1haほど購入することにした。ピナンタン・レイクというその湖の、パラダイスロードと呼ばれる小道の突き当たりに、私たちの土地があった。ここで私たちは、田舎に家をもつという夢を実現させるための計画を練り始めたのである。
4.ログハウスの設計
「ほかの人とは違う家を持とうね」それが私たちの考えだった。
自然の中で育った素材、つまりログハウスであるとか、製材されたティンバーを組み合わせたティンバーフレーム・ハウスといった、木を使う家を建てることが望みだったが、いずれにせよ、片田舎の自然にマッチした建物が欲しかったのである。
初めてのログハウスの図面を描くエド |
とは言え、1971年〜‘72年当時は、ログハウスに関しての情報は、驚くほど乏しいものだった。
そこで図書館に通ったり、人々に尋ねたりする毎日が続いた。そんな時に出会ったのが、アラン・マッキー氏が著したログハウス(私たちの思い描いた建物)の本だった。さっそくその本を参考に、乏しい知識と経験で図面を引き始めることにした。
製図に関する私の知識は、ハイスクールで習っただけのものだったから、言ってみれば素人同然。
それでもアイリーンと一緒に、「バスルーム
とベッドルームを除いてはオープンスペースにしよう」とか「キッチンとリビングは壁で仕切らずに一つの大きな空間にしよう」とか、「ロフトへの階段はログにし、手摺も丸太を取り付けよう」といったことを、ひとつひとつ決めていった。
貧相な建物という考えを変えたかった
当時の人々には、ログキャビンは開拓時代の流れをくむ貧相な建物で、そこに住む人々は、きっと貧しいクラスの人々に違いないという、ある種の固定観念があったようである。
そういう思いを覆したいという思いも、私にはあった。ログハウスが決して貧相な建物でないことを証明したかったのである。
ログハウスはその建て方、考え方次第で、いかに立派で美しいかを、多くの人々に知ってほしかったのだ。