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当時のログ・サイト |
日本人の感覚にあい通じるもの
私の曾々おばあさんはモホーク・インディアンの生まれである。
そして私はそのことを、とても誇りに感じている。
彼女はオンタリオ南部のエリー湖のほとりで生まれた。
モホークとはイロコワ族(ニューヨークに住んでいた北米インディアンたち)の内でも、非常に力のある部族のひとつで、カナダでは、彼らは酪農を営む唯一の部族として知られている。
そのような確固たる食料供給源をもっていたために固有の文化を、より一層発展させることが可能だった。
そんな血筋ゆえ、私がどうして自然を好むかといったことや、ヨーロッパからやって来て住み着いた北米の人々の感覚よりも、アジアのひとたち、特に日本人の感覚にあい通じるものがあることを納得してもらえるのではないだろうか。
自然を好むという私の志向が、自然の素材を使い、自然の中にログハウスを建てるという思いに駆り立てているのだろう。自然の中で成長を続ける木、これが家作りに最高の素材なのである。
私のログハウスつくりは、出きるだけ木の自然な姿を残すように、またそれらがもつ本当の美を表現できるように努めることにあった。
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オンタリオを離れB・C州へと旅立つ |
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ピナンタン・レイク付近の風景 |
「ほかの人とは違う家を持とうね」それが私たちの考えだった。
自然の中で育った素材、つまりログハウスであるとか、製材されたティンバーを組み合わせたティンバーフレーム・ハウスといった、木を使う家を建てることが望みだったが、いずれにせよ、片田舎の自然にマッチした建物が欲しかったのである。
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初めてのログハウスの図面を描くエド |
とは言え、1971年〜‘72年当時は、ログハウスに関しての情報は、驚くほど乏しいものだった。
そこで図書館に通ったり、人々に尋ねたりする毎日が続いた。そんな時に出会ったのが、アラン・マッキー氏が著したログハウス(私たちの思い描いた建物)の本だった。さっそくその本を参考に、乏しい知識と経験で図面を引き始めることにした。
製図に関する私の知識は、ハイスクールで習っただけのものだったから、言ってみれば素人同然。
それでもアイリーンと一緒に、「バスルーム
とベッドルームを除いてはオープンスペースにしよう」とか「キッチンとリビングは壁で仕切らずに一つの大きな空間にしよう」とか、「ロフトへの階段はログにし、手摺も丸太を取り付けよう」といったことを、ひとつひとつ決めていった。
貧相な建物という考えを変えたかった
当時の人々には、ログキャビンは開拓時代の流れをくむ貧相な建物で、そこに住む人々は、きっと貧しいクラスの人々に違いないという、ある種の固定観念があったようである。
そういう思いを覆したいという思いも、私にはあった。ログハウスが決して貧相な建物でないことを証明したかったのである。
ログハウスはその建て方、考え方次第で、いかに立派で美しいかを、多くの人々に知ってほしかったのだ。