エド・キャンベルの自伝
■主な内容
からBC洲への移動を決心
造りたい。
第1回 自然に親しんだ少年時代
第2回 家族との楽しい日々
第3回 初めてのログハウス造り
第4回 子供の頃からの夢の実現
第5回 丸太を手に入れ、いざ開始
第6回 ログ工事の開始そして引越し
第3回 目次
関連ペイジ
→エド・キャンベル紹介
→エド・キャンベル (雑誌記事)
1.一大決心しオンタリオからBC洲へ
1970年のことです。その頃私は情緒不安定になっていました。なんだか落ち着かない日々が続いていたのです。そこで家族会議を開いて、思い切ってBC洲(ブリティッシュコロンビア)州に移ることにしました。
それは私にとっても家族にとっても一大決心だったのです。なぜならBC洲は、ノースベイから4500km離れているのですから。山があり湖があり川がある。私のお気に入りだったはずのノースベイを離れることにしたのです。仕事を辞め、友と別れ、有り余るほどの自然と別れを告げ、この地を去る決心をしたのです。
BC洲カムループスに到着
1970年夏、私たちはBC洲カムループスに到着しました。まずやったことは就職活動。カムループスにある電話会社に問い合わせ、幸運もすぐに職に就くことが出来ました。当時のBC洲は、開発発展が著しく、経験豊富な人材を必要としていました。私はそれに応えるだけの経験があったのです。
ここカムループスで、私たちにとって初めて、街中に家を購入しました(それまで田舎にしか住んだことはありませんでしたから)。正直なことを言えば、私は木や草花が恋しくてしかたなかったのです。
野山を自由きままに歩き回ったり、我が家の窓から、鹿の通り過ぎるのを眺めたり・・・。そんなことはもう不可能になったのです。
2.ログハウスで自分の家を造ろう
1971年のある日、ブライアンと彼の友人がちょっとした問題を引き起こしてしまいました。近所のガレージで火遊びをしていて、その火がガレージに燃え移ってしまったのです。2人とも逃げたのですが、友人は火傷を負い、入院してしまいました。ガレージも使い物にならなくなり、そのことがブライアンを苦しめていたようです。いま考えてみれば、それがきっかけで、ログハウスにかかわるようになったのかもしれません。
その時私たちは、もうこれ以上街に住む必要はないと感じ、再び田舎に住むことにしました。そうなると、又家を建てなければなりません。「どうせ建てるなら、思い切って田舎にログハウスを建てて住んでしまえ」そんな暮らしが、私たちの夢だったのかもしれないと、いまになって思います。
初めてのログハウスを造る |
計画スタート。「とにかく始めてみよう」
まず本を読んで知識を得、プランを作成するところから、ログハウス作りの計画がスタートしました。
とは言え、近くにログハウスを建てたことのある人はおろか、知っている人なんていやしません。ですから「とにかく始めてみよう」ということになったのです。
立ち木を切り倒す仕事から
1972年から‘73年にかけての冬、週末のたびごとにアイリーンと私はスノーシューズをはき、森に入り込んでは立ち木を切り倒す仕事を続けました。
冬の森は、驚くほど静かで美しいものなのです。
火を焚き、切り倒したばかりのログに腰掛、お昼のサンドイッチとコーヒーをいただく。なんと素晴らしい時間と世界なのでしょう。
焚き火の火を見つめながら、私たちは飽きもせず、これから立てるログハウスの話をしました。
春が訪れるのを待ちかねるように、重機を手に入れ、切り倒したログを回収するために再び森に入りました。
そしてそのログを、ログハウスの建築予定地であるピナンタンレイクのほとりに運びました。
そのころはまだ、私は電話会社に勤めていたので、ログの皮むきはアイリーンの担当でした。
私がログハウスづくりに参加できたのは、勤めから帰った夕方や、週末に限られていました。
アイリーンはよく働き、家族総出で汗を流しました。
ログハウス造りの合間にカヌーを楽しむ |
すこしずつ刻み上げらていくログハウス
ログハウスは、すこしずつ刻み上げられていきました。
それはまるで、子供や生まれたばかりの生き物が成長していく姿に似て、私たちをとても興奮させてくれました。
ログハウスづくりは勿論独学ですが、丸太をくみ上げるコのようなものは、割合素直に理解することが出来たと思います。
人々が訪ねて来ては、口々に「素晴らしい建物だね」と言うのを聞いても、私もアイリーンもそして 子供たちも、とても誇らしい気分でした。
3.「ログハウス」、こいつに生活を懸けてみよう
1974年から75年の、秋から冬にかけてだったと思います。私は、このログハウスに、私の生活を懸けてみようと思うようになりました。事実、電話会社に働くことに、少しばかり疲れてきていました。
それに比べ、ログに触れながら建物を造り上げることの楽しさと新鮮さ。
そして自ら刻んだログが一段一段積み重なっていく充実感。それは申し訳ないけれど、言葉では言い表せないものなのです。
そして残念ながら文章でも伝えることが出来ません。これは、ログハウスを建てたことのある人だけ味わえる贅沢なのかもしれません。
「ログハウス、こいつで飯が食えたら素晴らしいのに」
初期のワークサイト ここから日本へログハウスを輸出した |
私は、私だけのボスになる
私は、職場ではスーパーバイザーになっていました。給料も決して悪くありませんでした。
でも、もう他人の会社で働くのに疲れてしまったのです。「私は、私だけのボスになる」、そう決めたのです。
私が最初にしたことは、営業に出ることでも、看板を揚げて注文を待つことでもありませんでした。思い切ってカレッジでクラスを持つことにしたのです。
自分自身の体験を基に、ログハウスとは一体どんな建物なのか、どうやって刻み上げればいいのかといったことを、人々に話したり、教えたりすることにしたのです。
驚いたことに、最初の夜間クラスには、100人もの人が参加してくれました。
それはとても嬉しくなることでしたが、なによりも私を喜ばせたのは、この仕事でお金を得ることが出来たということでした。これから仕事を続けていく上で、あるいは家族を養っていく上で、とても大切なことですから。
そのクラスに参加してくれた人たちの幾人かは、20年たった現在でも、ログビルダーであったり、自分のログ会社を経営しています。
そのようなわけで、私のビジネスは順調にスタートし、カナダやアメリカでも、徐々に名前が知られるようになっていきました
4.多くの出会い、日本とのつながり
1983年、一人の日本人が訪ねてきました。彼がカナダにやってきたのはログビルディングの研修と、
ログハウスを日本に輸入するのが可能かどうかを調査するためでした。短い滞在ではありましたが、私たちはログハウスに関する様々な可能性を語り合い、分かれるときには良き友人になっていました。この出会いが、やがて私に。カナダからログハウスを日本に紹介する機会を与えてくれたのです。
日本でも名が知られるようになり、この美しい国を訪れる機会も増 えた(兼六園?) |
日本のログハウスに関して、いまでも最も信頼できる人物の一人である彼とは、この雑誌でエッセイを連載している三浦亮三郎氏です。
その三浦氏を通じて知り合った人々と、現在でもビジネスで、あるいはプライベートにお付き合いさせていただいています。
もう一人私が信頼する友人がいます。そう、この文章を翻訳してくれている平川くんです。
私のスタッフとして、カナダで彼は何年か働いてくれました。彼が帰国してしまった今でも、カナダと日本の間で仕事をする機会があります。日本のログハウスメーカーとの取引の際にも、いろいろと助けてもらっています。
1984年以降、私のログハウスに関するいくつかのストーリーや写真などが、日本でも紹介されました。
そのおかげで、私の名前を知っていただき、私が手がけたログハウスが建てられ、良き友人も沢山出来たことを感謝しています。
今回は私の生い立ちと、ログハウスの仕事についたきっかけをご紹介してみました。
読者の中には、もっとログハウスに関する情報を期待していた方も多いのではないでしょうか。
ログハウスの専門誌ですから、それも無理のないことです。
しかし、私は、カナダでの生活を語ることで、ログハウスが生まれた背景を知っていただきたいと考えました。
カナダの自然や、そこでの暮らし方を通して、ログハウスの意味を考えていただければと思ったのです。
ですから次回は、カナダでの人々の暮らしを、もう少し詳しく紹介してみようかと考えています。ではまた秋にお会いしましょう。