カナダ現代ログハウスの父
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エド・キャンベル物語  第2回 家族との楽しい日々

日本でもなじみの深い、カナダのマスタービルダー
エド・キャンベルの自伝
■主な内容
  • 電話線工事士しになり、アイリーンと結婚
  • 二人の子供を得て、家族楽しく自然の中で楽しく
     暮らす日々

    第1回 自然に親しんだ少年時代

    第2回 家族との楽しい日々

    第3回  初めてのログハウス造り

    第4回 子供の頃からの夢の実現

    第5回 丸太を手に入れ、いざ開始

    第6回 ログ工事の開始そして引越し


    第2回  目次


  • 関連ペイジ
    エド・キャンベル紹介
    エド・キャンベル (雑誌記事)









    1.16歳の初恋

    14歳のとき、私たちは祖父母の農場を離れました。その頃私には三人の弟と一人の妹がいました。
     ですから新しい家が必要だったのです。父の家づくりは一年かかりました。
    もちろん長男である私も手伝いました。その頃だったとおもいます。
    ラジオが好きで、よく夜更かししたのは。
    アイリーンと初めて会った学校(9歳の時)
                                        誰もが寝静まった夜、一人ベッドの中でラジオを訊く、
    その楽しさといったらありませんでした。
     闇の中で私の思考は冴え渡り、想像力がふくらんでいきます。想像の中で物事を描き、組み立て、誰にも邪魔されずに私だけ の世界が夢とも現実とも定かでなくなってきたとき、まどろみの時がやってくるのです。

     私と一緒にラジオを聞いて育った人には、きっとそんな経験があるに違いありません。
    今の若い人たちには、一寸理解できないかも知れませんが・・・。

     相手はキュートな赤毛の少女
    そんな私も、16歳になったとき、初めて女性に興味を持ちました。それまで私は、ハンティングやフィッシング、ホッケーゲームに夢中でした。そんなある日、一緒に学校に通う友人たちの中の一人が、とてもスペシャルな存在に思えるようになってきたのです。

    アイリーンはセントジョーン野戦病院の一員でもあった
    彼女は赤毛で、なによりとてもキュートでした。
    登下校のとき、彼女の本や荷物をもってあげたこともありました。

      やがて、お互いの家族の問題、自分あるいは自分たちの将来の夢なんかも語り合うようになっていました。ポッケットにいくらかの小銭が残っている土曜日のよる、二人で仲良く映画にでかけたこともありました。




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    2.電話線工事士として働き始める

     17歳になったとき、私は高校をやめ、社会人として電話会社で働くことにしました。
     1956年当時は景気もよく、高校一年程度の学力と知識があれば、誰でも警察官、消防士、鉄道員、航空会社、自動車産業、電話・電気関係などの仕事は、容易に手に入れることが出来ました。
    高校をやめ電話線工事士の職を得た

      私は幸運だったとおもいます1956年2月7日から、電話会社のラインマン(電話線工事士)として働き始めました。

      最初から給料がいいはずはないけれど、生活は保障されていたし、7年間の教育期間が過ぎれば、給料もあがることになっていました。おまけに、いろいろな特典も手に入れることが出来ます。

     働きだしてから私は、赤毛のアイリーンという娘と付き合い続けていました。同じ年の3月にはアイリーンも学校を辞め、ゼネラルモータースに職を得ました
     彼女に課せられた仕事は、車内の配線に使われる電線を作る作業でした。
    そのころ私は最初の車を購入し、日曜日に二人で、郊外に出かけるようになっていました。
     アイリーンをつれて野山を散策するときはいつも、私のしっている限りのこと(もちろん、その全ては自然に関してだが)彼女に語った。それが私たちのデードでした。
     彼女をウサギ狩りに連れ出したり、小川のほとりで魚釣りに興じたり・・・夜空の星に魅入られながら、他の惑星にも生命体が存在するのだろうかといったことを、真剣に話し合ったりもしました。

    3.19歳でアイリーンと結婚

        私の育った農場を訪れたアイリーン
      私にとってアイリーンと過ごすときがごく自然で、幸せだと感じられましたし、きっとアイリーンもそうだったに違いありません。
      そして私たちは自分たちの生活を築き上げようと決心しました。私は彼女を人生のパートナーに選んだのでした。
      それは何のためらいもなく、ごく自然な流れのように思えました。1957年11月30日、私たちが19歳のときのことです。

     悲しみの日々
     1959年、私とアイリーンの間に、待望の子供が出来ました。女の子で、でも彼女は、7ヶ月の未熟児でした。自分の命を自分で維持するには、すこしばかり小さすぎ、とても弱い存在でした。
      現代の医学ならばこんなことにならなかったのかもしれませんが、私たちの最初の子どもは、2日と半日の命しか与えられていなかったようです。
     エドとアイリーン  初めて買った車 

     アイリーンにとっても、もちろん私にとっても、それは非常にショックな出来事でした。
      この種の悲劇を体験するには、私たちはあまりにも若すぎたのかもしれません。
      当時の私たちに、悲しみのやり場があろうはずもありません。もう少し成長する時間が必要だったのです。
      家庭を築き上げるための責任を自覚する時間が・・・・・亡くなってしまった赤ん坊と同様、あまりに未熟なカップルだったように思えます。





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    4.長男、長女誕生・ノースベイへの引っ越

     1961年に長男ブライアンが誕生しました。ブロンドの髪に青い瞳、なによりも嬉しいことにとても健康でした。その年建て始めていた家が6月に完成し、親子三人での生活がこの新居でスタートしたのです。
     1964年には二人目の子供が誕生。女の子で、早産でしたが、彼女はとても強く、健康に成長しました。
      ブレンダと名付けたこの娘も今では二児の母親です。

     子供達が成長していく間も私たちは近所の野山や森にでかけることを忘れませんでした。
    私の方にはブライアンが乗り、彼の小さな指が示す方向へと、気ままに森の中を巡るのです。
    当時私たちはジグという犬を飼っていて、森の中でよくウサギや雉を追いかけまわしていました。
    ジグが小動物と戯れている間、私たちは、透き通るような澄んだ空気の中で、自然が発する音や匂いを楽しんでいました。
     その頃アイリーンは、育児に専念するため自動車工場を辞めていました。冬の寒い日でも、彼女は子供を連れ出して野山にでかけていました。もちろんジグも一緒です。時には子供達を乗せたソリを引っ張りもしました アイリーンは工場で働くよりも、子供達と一緒に野山を走りまわることを選んだのです。
    14kgもあるマケランジ(川マスの一種)

     ノースベイへの引っ越
     1965年、私の転勤に伴い建てたばかりの家を売り、トロントから北へ300kmはなれた町、ノースベイに引っ越しました。そこには湖が多く、釣りのベースには最適の町でした。
     私の勤める電話会社は、私をよく出張させました。おかげで、その地域の森や湖、河川などの状態をとてもよく知ることができました。

    私の家は湖畔にあり、春には素晴らしい釣りのポイントになりました。
    仕事が終わると、ブライアンを連れて釣りを楽しむのが、私の日課のようになっていました。
      私たちがよく釣った獲物はウォーライ(スズキ目パーチ科の淡水魚)と呼ばれる大きな目玉の魚で、2kgもあれば、我が家の食卓を飾るには十分の大きさでした。
      運がよければ、重さが5〜10kgにもなるパイク(川カマスの一種)を吊り上げることもありました。


         アイリーンも釣りは大好き
      週末には、妻のアイリーンやブレンダを引き連れて、釣りに興ずるのです。アイリーンは釣りがとても好きで、しばしば私より大きな奴を吊り上げて見せました。

     ノースベイでの生活はとても楽しく、子供達もすくすく育ち、友達もたくさん出来ました。仕事だって楽しく、自分でもよく働いたと思います。

     セスナの免許
     1966年2月のある日、私はセスナの免許をとろうと思い立ちました。大空を自由に羽ばたくこと、それが私の長年の夢です。そして、その年の4月、ついにライセンスを取得しました。
    飛行学校は湖の側にありました。湖にセスナなんて不思議に思うでしょうが、湖面から飛び立って湖に着水することは、ごく当たり前のことなんです。

     冬になって湖面が氷結すると、セスナはソリを履かなければなりません。
    氷の張らない夏の間は、ポンツーン(水上飛行機のフロート)と呼ばれる浮き輪状のものを脚に装着します。
    そのどちらも覚えた私は、ノースベイのエリアを、空から散歩する楽しみを知ったのです。
    セスナにソリをつけ 凍った湖面から空に飛ぶ

      天気がよく、風もないとても穏やかな日には、しばしばパイロットは大きなミスを犯しがちです。
     鏡のように、波ひとつなく静まり返った湖面。透明度が高ければ高いほど、そのキレイに磨き上げられたクリアガラスを通して、すぐそこに湖底が覗けます。
      そんなとき、高度を下げ、湖面に近づくと、一瞬どこが水面かわからなくなるのです。
      幾人かのパイロットはそこが水面だと気づかずに、そのまま湖に突っ込んでしまいました。
      そんな時私は尻の下に敷いているクッションを湖面めがけて投げるのです。湖面に漂うそのクッションが、そこが湖面であることを教えてくれるのです。

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