世界最大のログの建築物 「シャトーモンテベーロ」
4ヶ月という、信じられないような短期間で造られたこの
建物と、不可能を可能にした男、ビクターナイマークの物語。
(三浦 雑誌連載より)
■主な内容
ログの城だった。当時引退してモンテベーロに
住んでいたナイマークに会えるはずだったが・・
第1回 シャトー・モンテベーロとは
第2回 猛烈な勢いで工事が進む
第3回 シャトーの奇跡的な完成
第1回 目次
1.フィンランドの幸運児
ビクター・ナイマークが新天地を求めて故国フィンランドをあとにしカナダに移住したのは、1924年23歳の時だった。やっとの思いでためたお金も大半が渡航費用に消え、モントリオールに着いたときポケットに残っていたのはわずか25ドルであった。
当時腕の良い職人の給料が1時間当たり50~55セントだったというから 、25ドルというのはほぼ1週間分の給料に過ぎない。
この心細いたくわえでは悠長に構えているわけにはいかない。「何か自分に出来そうな仕事がないか、出来れば建築に関係のありそうな仕事が」、彼はモントリオールの港に下り立ったその足で仕事を探して歩いた。
着いたその日に仕事にありつく
「私はモントリオールのドチェスター ブールバードを歩いていた。一人の男が木を倒そうとしているのが目についた。私は考えた。(木を倒そうとしているからには、何か理由があるに違いない。それも建築に関係ありそうな)。
そこで私はゲイトを通り、知っている限りの言葉を並べてその理由を聞くと「この建物を壊して、もっと大きな家に建て直すんだよ」という。
私はオーナーの名前と住所を聞き出し、その足でオーナーに会いに行き、首尾よく窓とドアを取り外す仕事を貰うことが出来た。それは結構な大仕事でその週の終わりには何人かのカナダ人を雇っていた」(ナイマークの回想録)
幸運なことに着いたその日に仕事にありつくことが出来たのである。
次々と大きなログ建築を建て実績を作ったいく
若い頃からログビルダーとしての技術と経験を積み重ねていたナイマークは次々を大きなログハウスをてがけ、モントリオールで仕事の基礎を築いていく。
幸運にも恵まれたが、その幸運をもたらしたのは彼の並外れた行動力だった。
冒険心と野心に満ち溢れたこの青年は、8年後に世界一のログ・ビルディング「シャトー・モンテベーロ」の建設という壮大な仕事の総指揮をとり、見事に成し遂げ、建築の歴史にその名を刻むことになる。
2.モンテベーロを訪ねる
カナダでの ログビルスクール (中央に三浦) |
日本で初めて開校したログビルディング・スクールが幸いにも成功し、スクールと平行してログハウスを作る会社を立ち上げてまだ2年目、1984年の事だった。その夏、スクールを無事終えた私はカナダでのスクーリングツアーを計画した。
前半は山の中でログハウス作りのスクールをやり、合間には乗馬やハイキングやカヌーを楽しみ、後半カナダ国内を旅しながら優れたログハウスを見て回ろうという企画である。
20日という長期であることと、かなりの参加費を必要とするツアーだったので果たして参加者が集められるかと心配したのだが、日本での私のスクールを卒業した生徒を中心に、幸いにも13名集まり実行する事が出来た。
スクールの最終目的地 モンテベーロ
このスクール&ツアーの最終目的地がこのシャトー・モンテベーロであった。
この計画をカナダサイドで全てお膳立てしてくれたダン・ミルンがビクター・ナイマーク氏に会う段取りをつけてくれた。
ダン・ミルンはカナダのスクールに参加した時に知り合って意気投合し、日本でのスクールの実現に協力してくれたマススタービルダーである。
ゲート前にて カナダ・スクールの生徒達 |
メインダイニングで食事をとった |
5年間夏のスクールに講師として参加してくれて、寝食をともにしながら延べ300人以上の人たちにログハウスの技術を教えてくれた。後に共著でログハウスの本を出版することになる。
はるかなる目標
「ログでこれほどの規模の建物が可能なのか」。
ダンからこのシャトー・モンテベーロの事を教えて貰った時、それまで「ログハウス=丸太作りの家」のイメージを脱しきれなかった私は驚くと同時にログ建築に無限の可能性を感じ取ったのだった。
いつかは大規模なログハウスを建ててみたいという目標が、その時漠然とだが胸の奥に芽生えたのであった。
ナイマーク氏に会えるはずだったが・・
当時ビクター・ナイマークは83歳、とっくに引退して、自分の人生に最も重要な意味をもつこの建物の近くに住み悠々自適の生活を送っていた。ログ・ビルディングの世界では今や伝説上の人物になろうとしているこの人に会えるとしたら、恐らくこれが最後のチャンスであろう。
シャトー・モンテベーロとはどんな建物か、どんな経過で建てられたのか?建築の過程を詳しく書いている「ビルディング・ザ・シャトー・モンテベーロ」という本がある。
この本を紐解きながら綴ってみよう。世界一のログハウス建設の壮大な物語を。
3.「シャトー・モンテベーロ」
ロビーの中心に大暖炉がそびえる |
カナダで初めての先進国サミットが開かれた |
レーガン、サッチャー、日本の鈴木善幸他 |
シャトー・モンテベーロはオタワとモントリオールの中間のオタワリバーに面した景勝の地に建っている。
当初は上流階級の社交クラブとして建てられ、モナコの大公や歌手のペリーコモなど著名人や金持ちや貴族が、優雅なバカンスを楽しみに訪れたという。
今はカナディアン・パシフィック鉄道によりホテルとして一般に開放され、世界中から多くの人が訪れている。
先進国サミットの会場となる
1981年第7回のサミット(先進国首脳会議)がオタワで開かれた時、ホスト役のトルード首相はこのシャトー・モンテベーロを会場に選んだ。
当時の写真を見ると、イギリスのサッチャー首相、アメリカのレーガン大統領、ドイツのシュミット首相、フランスのミッテラン大統領、そして日本からは鈴木善幸さん等々・・・‥世界の首脳達が、この建物の中核をなす巨大な暖炉を背に立ち並んでいる。
このサミットのお陰で、森と湖に囲まれてひっそりと建ち続けていたこの歴史的な建物は、テレビを通じてにわかに脚光をあび、改めて世界の人々の関心を惹いたのだった。
この世界一のログハウスが建てられたのは1930年、今から80年以上も前(2011年現在)のことになるが、いまだにこれを超えるログハウスはなく、これからも当分破られるとは思えない。北欧やロシアで受け継がれてきた当時のログ・ビルディング技術の粋を集めて作られた素晴らしい建築物である。
中央に見えるのが「シャトーモンテベーロ」 敷地面積は約6万5千エーカー(約8000万坪)。敷地の中には大小70の湖がある。 いかにもカナダらしいスケールだ |
4.シャトーモンテベーロの概要
シャトー・モンテベーロは、四季を通じて多種多様な遊びを楽しめる理想的なリゾートの要素を持っている。広大な敷地の中に大小70の湖がある。
ホテルの前の湖にはヨットハーバーがあり、モントリオール河をさかのぼり、ヨットやボートでクルージングを楽しみながら、このホテルを訪れる客も多い。
六角形のロビーから4方に宿泊棟が延びる。ロビーの中心に世界最大とも言われる暖炉が聳え立っている 手前にメインダイニングルーム、奥にボールルーム(ダンスルーム) |
施設
○18ホールのゴルフ場
メインダイニングルーム |
○屋内プール
○乗馬トレイル
○ 延長100キロにも及ぶクロスカントリースキー
のコース。
○冬にはテニスコートがスケートリンク早や代わり スケートやカーリングが楽しめる。
○ 当時は木で組んだ本格的なジャンプ台まであっ た
建物
シャトー・モンテベーロは三つの大きな建物からなっている。
○
ホテルとして使われている客室数200のログ・シャ トー、
○
従業員用宿舎のシダー・ホール
○そして150台収容可能な屋内駐車場である。
3棟の延べ床面積は3万6千?(約1万1千坪)にも及ぶ。
ログシャトー
ログ・シャトーは4層からなり、一階部分はコンクリート、その上に3層のログの壁が組まれている。
建物の中心部は六角形の大ドームになっていて、そ こから客室棟が4方向に翼を広げ、その客室棟にはさまれる形でメインダイニング、ダンスホール、映画館などがある。
大暖炉が大黒柱となり、その先端に向かって 無数の丸太が組まれている |
中央の大ドームは太いログの柱と梁が複雑に組み合わされ、中心には六角形の高さ20mもの、恐らく世界一の巨大な暖炉が聳えたっている。
このドームに足を踏み入れた客は、まずこの暖炉を見上げ、驚嘆の声をあげ、大空間の迫力に圧倒される。
この六箇所の焚き口を持つ巨大な暖炉は、暖房の役目だけではなく、ドームの複雑な屋根構造を支える大黒柱として、構造的にも大切な役割を果たしている。
三つの建物の合計を、30坪程度の平均的なログの別荘に換算すると約400棟分に相当する規模を。
まだまだ機械力の未発達な時代。この頃は現在のログハウス作りに欠かせないチェーンソーもまだ登場していない。斧や他の手道具を使い、手作業で丸太を加工し組み立てなくてはならない。
与えられた期間はわずか4ヶ月。
この巨大プロジェクトに与えられた期間はわずか4ヶ月。その中でログの部分(壁、小屋組)は2ヶ月だけ。
若干29歳のビクター・ナイマークは、マスター・ビルダーとして800人ものビルダーの総指揮を取り、この壮大なログの城「シャトー・モンテベーロ」を、驚異的なスピードで造り上げる。