フロンティア交遊録
エド・キャンベル@
第九回 |
エド・キャンベル(1) |
著者紹介の写真の、左の男が、エド・キャンベル、私の仕事上のパ―トナーであり、ログハウスの世界を先導してくれた敬愛する先輩であり、友人でもある。1995年8月、エドの考案した、全く新しいタイプの家の第一号を、愛媛県松山市の山中で建てることになった。ツーバイフォー工法の合理性と、ログハウスの魅力を併せ持った家で、ウエスタン・レッドシダーという樹種をふんだんに使用する事から、エドの名前と組み合わせて、後に私がネーミングする。この家をこれから日本に広めて行こうと、エドと私は張り切っていた。 <一緒に組立作業するエドと私(愛媛)> エドは温泉が好きで、仕事を終えて宿に帰ると、真っ先に名物のジャングル温泉に行ったものである。湯船につかりながら、実に多くの事を話し合った。まず、これから広めていこうと考えている、この新しい家のことである。このプロジェクトはエドにとっても、私にとっても新たな挑戦であり、仕事を通しての心躍る冒険であった。そして昔話。私が初めて訪れた時のこと、多感な少年時代の思い出や、初めてログハウスを建てた時の話、仕事上の苦労話。 初めての出会いは雑誌だった エド・キャンベルの名を初めて知ったのは、「ログホームガイド」というアメリカの雑誌からであった。1983年8月、ログ・ビルディング・スクールに参加するため、カナダに出発しようとしていた直前、神田の古本屋で、偶然この本を見つけた。この本の中でエドの特集記事が掲載されていて、その作品と共に、ログハウスつくりを始めるに至った、彼とその家族の冒険が記されていた。「33歳までは平凡なサラリーマンだった男が、いかにしてログハウスの世界に足を踏み入れることになったのか」、この物語は、同じように、未知の世界に飛び込もうとする私を勇気づけ、希望と目標を与えてくれたのであった。その時の私は、いまだ人生の目標定まらぬ40歳。妻と8歳の息子と5歳の娘、4人家族の生活を抱え、流されるままに、生きていた。そんな時に、偶然、カナダに丸太小屋作りを教えてくれる学校のある事を知り、ひらめいた。「面白い、これがきっと、自分のやりたい仕事だ」と。日本人がまだ誰も手がけていず、ログハウスが全く知られていなかった頃の話である。「日本人は木が好きだ。きっと受け入れられる」という、根拠のない直感だけを頼りに、カナダに渡ろうとしていた。 <雑誌で紹介されたエド・キャンベル> エド・キャンベルの経歴 1938年11月、オンタリオ州のトロントでエド・キャンベルは生まれた。父方の祖母はイングリッシュとモホークインディアンのハーフである。エドには16分の一のインディアンの血が流れているわけで、彼はその事を非常に誇りに思っている。と同時に、インディアンと日本人本人の血は、遠い昔にはつながっていると信じていて、我々日本人に対して、特別な親愛感と強い興味を持ち続けていた。 エド・キャンベル人生の大きな転機 アイリーンや子供達と、何度も話し合いを重ねた。思い切ってニュージーランドに移住しよう、という方向に、エドの気持ちは傾いていた。当時6歳のブレンダは「私はどこでも良いよ」と賛成してくれたが、9歳のブライアンが反対した。「住むところを変えるのは構わないけど、友達やおじいちゃんと一生会えないかも知れない外国はいやだ」。エドは息子の気持ちを尊重し、カナダを離れるのは諦めた。そして全員一致で4500キロ離れたカナダの反対側の州、B・C州に移り住むことに決めた。このブライアンの一言がエドとその一家のその後の運命を決めたことになる。1970年の5月エドは会社に辞表を出した。 |
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