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フロンティア交遊録

エド・キャンベル@

第九回
エド・キャンベル(1)

著者紹介の写真の、左の男が、エド・キャンベル、私の仕事上のパ―トナーであり、ログハウスの世界を先導してくれた敬愛する先輩であり、友人でもある。1995年8月、エドの考案した、全く新しいタイプの家の第一号を、愛媛県松山市の山中で建てることになった。ツーバイフォー工法の合理性と、ログハウスの魅力を併せ持った家で、ウエスタン・レッドシダーという樹種をふんだんに使用する事から、エドの名前と組み合わせて、後に私がネーミングする。この家をこれから日本に広めて行こうと、エドと私は張り切っていた。
松山の奥道後温泉に泊まり、現地の職人を指導しながら、延べひと月以上、先頭に立って二人で作業を続けた。


<一緒に組立作業するエドと私(愛媛)>

エドは温泉が好きで、仕事を終えて宿に帰ると、真っ先に名物のジャングル温泉に行ったものである。湯船につかりながら、実に多くの事を話し合った。まず、これから広めていこうと考えている、この新しい家のことである。このプロジェクトはエドにとっても、私にとっても新たな挑戦であり、仕事を通しての心躍る冒険であった。そして昔話。私が初めて訪れた時のこと、多感な少年時代の思い出や、初めてログハウスを建てた時の話、仕事上の苦労話。
幼馴染のアイリーンとのロマンス、仕事を引き継いでくれた息子のブライアンと、思いやりのある、素敵な女性に育ったブレンダの二人を愛し誇りに思っていること。家族のことを話す時には、素朴で朴訥な風貌の中に「開拓者時代の精神を受け継いだ男の、大きさと優しさ」を感じた。渡り鳥や鮭の習性、熊、ムースなどの、カナダのワイルドライフについて、うんちく傾ける時には「カナダの大自然がこういう男を産んだのだな」との思いを強くした。
何故アメリカが嫌いで、何故日本が好きなのか、今まで訪れた日本の町や自然、出会った人々、・・・・パラシュート降下で紐が絡まり、九死に一生を得たという思い掛けない話。その時にパニックに陥らず冷静に対処出来たのは、ボーイスカウトでの訓練が生きたのだという。「そうだボーイスカウトと言えば・・・・」思いつくまま、気の向くまま話が尽きない。空腹に気づき、ゆでだこになってようやく室に引き上げたものである。エドとは長い付き合いだがこれほど長期間、寝食をともにし、働き、語り合ったのは初めてのことであった。おかげで、エドの誠実さ、仕事に対する誇りと情熱、友情を大切にする熱い心、そして、そういう男を作り上げてきたバックボーンのような物を、以前より深く理解出来たのであった。
誰しも人生で重要な人との出会いが、いくつかあるに違いないが、私にとって、最も重要な出会いの一人が、このエド・キャンベルである。彼との最初の出会いは、20年前にさかのぼる。


初めての出会いは雑誌だった

エド・キャンベルの名を初めて知ったのは、「ログホームガイド」というアメリカの雑誌からであった。1983年8月、ログ・ビルディング・スクールに参加するため、カナダに出発しようとしていた直前、神田の古本屋で、偶然この本を見つけた。この本の中でエドの特集記事が掲載されていて、その作品と共に、ログハウスつくりを始めるに至った、彼とその家族の冒険が記されていた。「33歳までは平凡なサラリーマンだった男が、いかにしてログハウスの世界に足を踏み入れることになったのか」、この物語は、同じように、未知の世界に飛び込もうとする私を勇気づけ、希望と目標を与えてくれたのであった。その時の私は、いまだ人生の目標定まらぬ40歳。妻と8歳の息子と5歳の娘、4人家族の生活を抱え、流されるままに、生きていた。そんな時に、偶然、カナダに丸太小屋作りを教えてくれる学校のある事を知り、ひらめいた。「面白い、これがきっと、自分のやりたい仕事だ」と。日本人がまだ誰も手がけていず、ログハウスが全く知られていなかった頃の話である。「日本人は木が好きだ。きっと受け入れられる」という、根拠のない直感だけを頼りに、カナダに渡ろうとしていた。
しかし、先の見通しのない旅である。どちらかというと臆病で優柔不断な私は、出発を目前に、ためらう気持ちを振り切れずにいた。エドのこの物語は、そんな私の背中を、ポンと一押しして、一歩前えと踏み出させてくれたのであった。
丸太の壁を背景に、作業姿で立っている、がっしりとした身体と男らしい風貌を眺めながら、私は思った。「このエド・キャンベルという男と、いつか会うことがあるだろうか?」


<雑誌で紹介されたエド・キャンベル>

エド・キャンベルの経歴

1938年11月、オンタリオ州のトロントでエド・キャンベルは生まれた。父方の祖母はイングリッシュとモホークインディアンのハーフである。エドには16分の一のインディアンの血が流れているわけで、彼はその事を非常に誇りに思っている。と同時に、インディアンと日本人本人の血は、遠い昔にはつながっていると信じていて、我々日本人に対して、特別な親愛感と強い興味を持ち続けていた。
14歳の時、自分達の家を家族だけの力で建てることになり、一年掛がりで完成した。4人兄弟の長男であるエドは、父の仕事を手伝い、建築の仕事に、強い興味を覚えた。
早く世に出て働きたかったエドは、高校を中退し、17歳からオンタリオのベル電話会社に務めた。9歳の時に初めて会った幼馴染で同じ歳のアイリーンと、16歳の時から付き合い始めていて、一緒になろうと互いに真剣に考えていた。「赤毛のキュートな女の子」アイリーンも、高校を中退し、ゼネラルモータースに勤めていた。共に19歳の若さで結婚し、二人の子供をもうけ、家族4人、平凡だが幸福なサラリーマン生活を送っていた。仕事はラインマン(電話線工事士)、現場を飛び回るこの仕事は、エドの気性に合い気に入っていた。しかし、入社して15年目、33歳のとき、望んだ訳でもないのに管理職に引き上げられた。世間的には出世なのだろうが、現場とは違う人間関係の煩わしさにストレスが溜まっていく。(こんなことをして一生を過ごすのだろうか)。エドは次第に仕事と平凡な生活に疑問を持つようになっていく。思い悩んだ末、大きく舵を取り、人生行路を変えようと決心した。


エド・キャンベル人生の大きな転機

アイリーンや子供達と、何度も話し合いを重ねた。思い切ってニュージーランドに移住しよう、という方向に、エドの気持ちは傾いていた。当時6歳のブレンダは「私はどこでも良いよ」と賛成してくれたが、9歳のブライアンが反対した。「住むところを変えるのは構わないけど、友達やおじいちゃんと一生会えないかも知れない外国はいやだ」。エドは息子の気持ちを尊重し、カナダを離れるのは諦めた。そして全員一致で4500キロ離れたカナダの反対側の州、B・C州に移り住むことに決めた。このブライアンの一言がエドとその一家のその後の運命を決めたことになる。1970年の5月エドは会社に辞表を出した。
家と家具の全てを売り払い、キャンピングカーを買い求めた。
6月1日、一家にとってのグレートアドベンチュァーが始まった。

エド・キャンベル(2)に続く




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