1978年3月北極
カナダのエルズミア島にある北極圏の最高峰、バーボーピークでのスキー滑降を目指して、兄雄一郎はツインオッター機に搭乗していた。
「おまえ、植村直己を知っているか」と、パイロットのパトリックが話しかけた。突然彼の名前が出たことに戸惑いながら「よく知っている」と答えるとパトリックが「無線に出ろ」という。チュ―レ基地のサポート隊の人と交信していた植村直己は、突然無線に割り込んできた兄にびっくりして「三浦さん、東京?どこ?」とトンチンカンな返事。「今エルズミアにいるんだ」。空の上の兄と犬ぞりで北極点を目指していた植村直己が、偶然にも電波を通して会話を交わすことになる。二人の軌跡が一瞬交差した瞬間である。
「三浦さんね、僕すごい贅沢させてもらっているんだ、白熊を倒して今犬たちと一緒ににこにこしながら腹一杯食べているんだ」という。3月5日に17頭の犬たちと北極点へ向けて出発、その4日後のこと、植村直己は真夜中に白熊に襲われた。
「・・・・枕元のすぐ上のテントの外で、ブフーッ、ブフーッと臭いを嗅ぐ鼻息がすると思ととたん、巨大な足がテントの上から横向きの私の頭を一瞬押さえつけた」「ああ俺はもうだめだ、この世の終わりだ、白熊に食べられてしまう」(北極点グリーンランド単独行ム文春)
死を覚悟したその危機から、からくも逃れたその翌日、その白熊が味を占めてまたやってきた。復讐心に燃えた植村直己は用意していたライフルでその熊を打ち倒し、犬たちと一緒に夕食に新鮮な肉を食べているところだった。
植村直己が北極点への犬橇の旅を思い立ったのは、最終目標である南極への準備のためであった。行くてに幾度も立ち塞がる大小の氷のブロックを、“一個の人間砕氷機”とかして打ち壊しながら進路を切り開き、時にはマイマス40度を超え時には猛烈なブリザードが襲う極寒の地を、超人的な体力と意志で乗り越えて、単独では世界で初めて北極点に立った。4月29日18時30分。出発してから54日目のことである。6月、兄は北極圏の最高峰バーボーピークを登り無事滑り終えた。カナダ空軍山岳会に次ぐ史上2番目の登頂であった。
撮影(C):小谷明
1982年南極
南極大陸は1230万平方キロという日本の33倍の広大な面積の93%を氷に覆われている。氷の厚さは平均2200m、最も厚いところでは3500m以上と言われている。旧ソ連のボストーク基地(3488m)でマイナス88度という地球上の最低気温を観測したことがある。北極よりも平均20度低いと言われている。到るところにクレバスが口をあけ、2日に一度は風速50mを超えるブリザードが吹き荒れる、苛酷な自然状況。それまでビンソン・マシフ登頂に成功しているのは、1966年アメリカ隊のみ、それも国家の威信をかけて海軍が全面的に支援して初めてなし得たものである。もし登頂すれば二番目、民間ベースでは初めての快挙となる。
1982年2月、植村直己はアルゼンチン海軍の支援を受けて同国のサンマルティン基地に渡った。基地からビンソンマシフの麓まで1500キロ、犬橇を走らせ、約1月半かけて麓に達し、そりをおいて単独で登頂を狙うというものである。
しかし植村直己にとって不運なことに、決行を目前にした4月2日、英国との間でフォークランド紛争が起こった。「紛争と南極基地は別だ、我々は君の壮挙を必ずバックアップする」というアルゼンチン軍の約束に一縷の望みを託し、あせる心を抑えながら犬ぞりの訓練に励んだ。しかし、出発予定の8月半ばを過ぎても事態は好転しない。植村直己は南極横断の方は諦め、麓まで飛行機で運んでもらってビンソン・マシフを登頂することに的を絞り、なおも待ち続けた。しかし12月12日ついに「飛行機による支援は出来なくなった」と伝えてきた。最後の望みが潰えたその瞬間、植村直己は絶望に打ちひしがれた,凄愴な表情を浮かべた。自分の力でではどうにもならない、あまりにも苦い敗退であった。
時を同じくして兄も、英国とチリ政府の支援を取り付けて南極を目指している。2月18日に日本を発ち、アメリカユタ州のスノーバードスキー場で待機していた。しかし、南極へ飛ぶはずの飛行機が、いろいろな手違いが重なって手配がつかず、兄もついに断念。目的をはたせず撤退をよぎなくされている。「三浦・植村南極の対決」「地球を舞台に因縁の対決」などと、マスコミは面白おかしく書き立てていた。なんとも格好のつかない幕切れである。
1982年ビンソンマシフ
兄が再度ビンソン・マシフに挑戦したのは1983年である。その時兄は、植村直己を誘おうとして何とか連絡を取ろうとしている。植村直己が南極への足がかりを掴めず苦労している事を知っていたし、彼ほど頼りになるパートナーはいない。しかしどうしても連絡がとれず諦めた。
その頃植村直己は、アメリカのミネソタにあるアウトワードバウンド野外学校にいた。南極横断の夢を果たしたら、北海道の帯広で冒険学校を開きたいという夢をもっていて、その準備のためである。
そしてその後に、北米大陸の最高峰マッキンレー(6191m)の厳冬季の単独登頂に挑むことになる。もしも兄が植村直己と連絡が取れて南極行きを誘い、もしも彼がその申し出でを受けていたら・・・・。単独行動に拘っていた植村直己だがビンソン・マシフもアルゼンチンの若手将校と一緒に登山すること、という条件を受け入れている。しかもスキー滑降と登頂と二人の目的は違う。兄の申し出を受けた可能性は多いと思う。“兄と植村直己が、肩を並べてビンソン・マシフを登頂する”二人の軌跡がうまくかみ合っていたら、ありえたかも知れない光景を夢想する。
1983年11月30日、兄は南極の最高峰ビンソンマシフの登頂と滑降に成功した。山頂に立った時、果たして兄の脳裏に植村直己の顔が浮かんだであろうか
撮影(C):小谷明
植村直己マッキンレーに消える
兄のビンソンマシフ登頂を知った植村直己は、アウトワードバウンドから妻の公子さんにあてて送った最後の手紙を、次のように結んでいる。
「また将来の目標には是非このような学校を帯広の日高山脈の麓に作りたいもの・・・中略・・・一生懸命頑張っている。三浦さんのこと(注;ビンソンマシフに先に登頂されたこと)は無念だが、負けずにやるよ。元気で」(植村直己妻への手紙。文春新書)
アウトワードバウンドを離れる前の晩、植村直己が生徒達を前に語った言葉が今も私の心に響く。(「忘れえぬ人 植村直己」ジェームス・ウイックワイア著)
「君達に僕の考えを話そう。僕らが子供の時に、目に映る世界は新鮮で、全てが新しかった。やりたいことは何でもできた。・・・・・ところが年をとってくると疲れてくる。人々はあきらめ、みんな落ち着いてしまう。世界の美しさを見ようとしなくなってしまう。大部分の人たちが夢を失っていくんだよ。僕はいつまでも子供の心を失わずにこの世を生きようとしてきた。不思議なもの、すべての美しいものを見るために。子供の純粋な魂を持ち続けることが大切なんだ。いいかい、君たちはやろうと思えばなんでもできるんだ。僕と別れたあとも、そのことを思い出してほしい」。
その後植村直己はマッキンレーに向けて出発し、2月30日の交信を最後に消息を絶つ。兄が一緒にビンソン・マシフに登頂することを希望していたのを知ることもなく、植村直己はマッキンレーのどこかで今も眠っている。
ビンソン・マシフの後、兄は1985年9月にエルブルース、11月にアコンカグアと残る二峰の登頂とスキー滑降に成功し、53歳の年齢で世界7大陸の最高峰のスキー滑降を達成する。 |